2012年9月20日木曜日

ブルージーな朝

 今日はこれです。「ブルージーな朝」。

 稲葉さんの中では珍しい、女性を主人公に据えた曲なんですね。

 朝の陰鬱としか感じがじっとりと表現されている曲だと思います。
 自分から主体的に動く活力全てを失い、何となく、他人の不幸せを願い、また自分自身のそれを呪うような…。

 「来るはずのない電話」「あの人はどう思う」「電話が鳴り出した 神様に祈る」あたりから、恋人(過去の話?)との関係がうまくいっていないことが推測されます。
 多分このへんの解釈は人によって別れるんじゃないかな~と思いつつ、一応私の見解を書きますと、この主人公と恋人は最近うまく行っておらず、しかし主人公は恋人のことを今でも想っている、しかし関係の更なる崩壊を恐れて、自分からは電話できない、そして電話が来て欲しいとは思っているものの、それが自分たちの関係をプラスに持っていくものであると「神様に祈」っているような状態なのではないかと…。

 まあこのあたりの事情がどうであれ、稲葉さんが表現したかったのは、陰鬱に沈む女性の魅力といいますか、沈んだ表情の美しさなのではないかと。他の曲を聞いていて感じるのですが、稲葉さんは、どうも女性の陰の部分に惹かれることがあるような気がします。この歌は、そんな稲葉さんの持つ性癖のひとつに対してピンポイントでスポットを当てたものではないかと思います。

 そして私自身も、この歌に示されている、陰鬱に苛まれ、「びしょ濡れが気持ちいい」など、自傷的な衝動を孕みながら、なお「来るはずのない電話」=温もりを求める女性像の美しさ?官能美?に、何となく感覚で、魅力といいますか、惹かれるものを感じる次第です。

 このあたりの、じっとりとしたマイナスエネルギーに美的感覚を見出すのは、稲葉さんの歌詞の魅力の一つだと思っています。

2012年9月19日水曜日

儚いダイヤモンド

 今日はこれです。「儚いダイヤモンド」。

 この曲は、メロディこそ疾走感あふれていますが、いやあえてと言ったほうがいいのでしょうか、歌詞そのものは非常に後ろ向きな、救いのないものになっています。

 この曲はアルバム「BIG MACHINE」の収録曲ですが、このアルバムには、感情を知らない機械(BIG MACHINE)である存在と、愛を知った生身の人間の対比、そんな系統の曲が多い気がします。この「儚いダイヤモンド」で描かれているのは、かつては人間だったけれども、時間の経過によって「他人の痛みなど 知るヒマもない」存在に成り下がってしまった人の話です。

 歌詞の中で、「儚いダイヤモンド」について様々な例を用いて示されていますが、まとめると、社会的に財産とされているもの(地位・金・人脈 等々)を追い求めるあまり、何か大事なものを忘れてやしないかい?ということだと思います(特に、「確か いつか僕たちは同じ夢を見て・・・」のところに示されているような友情、もしかしたら、「愛のバクダン」や「love me,I love you」に示される、総体的な「愛」のことかもしれません)。

 まあこれだけだと結構ありきたりな感じがしないでもないですが、私がこの曲を高く評価しているのは、そのテーマをしんみりと歌いあげるのではなく、あえて激しい曲調と声色で疾走感と共に歌い上げたことが理由です。

 ひとつは、この疾走感が、あまりにも速い社会の流動を暗示しているということ。そしてもうひとつは、このスピード感が、ある意味この状態を肯定的に捉える意味合いを含んでいるのではないかという私の憶測によります。

 私はすでに成人してかなりの年月を経験しましたが、必ずしも、子供の頃自分が思い描いていた人間になれているとは思いません。むしろ、「自分で一番嫌いなタイプになっている」ような気さえします。

 しかし、この事実をもって、一体今何ができるのかということです。思い切ってリセットしてしまうという選択肢は存在するには存在しているのでしょうが、つまるところ、私たちはいかにぶっ壊れていようが、今の状態を認識して明日も生きていくしかないのです。もちろん、今までの自分を反省して少しずつ変えていく努力はするべきですが、ここまでやってきた行動、経験を昨日今日で一気になかったことにしてやり直すことなど到底できはしない。「忘れ物も思い出せ」なかろうが、立ち向かうべき明日は確実にやってくるということです。

 そこまで考えた時に、私はこの歌を、ただのどうしようもない現状を嘆いたものではなく、「しかしそれでも走り続ける」という、非常に逆説的ではあるがポジティブなメッセージが込められた歌なのだと解釈し、とても好きになりました。一直線に破滅に向かって行くのは、非常に悲しく、また客観的に見ると滑稽な状態ではありますが、悲哀と勇気と覚悟が織り交じった、強烈にドラマティックな光景でもあるとも言えます。例えその要素全てが闇に向かって行こうとも、それが自分というパーソナリティを形作っているならば、その自分を全うすることが、「生きる」ことの意味のひとつなのではないでしょうか。そんなメッセージが、私には、最後の方の「どうなってもいい 怖いものなどない」という歌詞に集約されているような気がしてなりません。

 今回はいつにも増して個人的な見解になってしまいましたが、あえて「状態」のみを描いているこの曲は、人によって大きく解釈が異なってきそうで、そういう楽しみ方ができる曲なのかもしれません。
 ではまた、次回もよろしくお願い致します。

2012年9月17日月曜日

恋心(KOI-GOKORO)

今日はこれです。「恋心(KOI-GOKORO)」。

 (KOI-GOKORO)ってなんやねんっていつも思うのですが、まあそれはいいでしょう。言わずと知れた超人気曲です。

 B'zの楽曲は、自己満足成分の高い曲と、明らかに売りに行っている曲の2種類に大別されると思います。とりわけ、シングルの表や、アルバムの代表曲などは、キャッチーなメロディや、パワーあふれる楽曲だったり、万人に受けやすく作られていると感じます。そしてそれを狙い通りに売ってしまうことも、B'zのお二人のポテンシャルの高さを表していると思います。

 しかし、そんなお二人でも、たまに大きなミスをしでかすことがあった…その一つが、この「恋心」を、2nd beatに入れてしまったことです。

 この曲は、シングル「ZERO」の裏にあたります。どういうわけか、本人たちも人気が出ると思っていなかった裏の曲が、凄まじい人気を誇り、あろうことか表の「ZERO」より人気が出てしまいました。しかしこのエピソードこそが、この曲が名曲たる所以の一つではないでしょうか。売るつもりではなかったのに売るつもりの曲より人気が出てしまったという…。

 また、この曲には振り付けがあります。どうやらコアなB'zファンの方々は当たり前のように踊れるようですが、私には踊れません(笑) そこまで難しいものでもないので、いつか動画を見て習得したいなと思っています。

 楽曲の感想に移ります。のっけから、少し抜いた、切なめに歌う稲葉さんの声に心を揺らされます。

 この曲のタイトルは「恋心」であり、はじめから、「先生」の報われない恋の話が綴られるわけですが、どうも、報われない恋だが何とか完遂させたいという切実な思いはどこか感じられない。これは曲の最後に分かることですが、この曲のテーマは確かに「恋心」を含んでいますが、総括のテーマは、必ずしもそれではないのです。そして、そのことが、この曲を単なるラブソングにとどまらない名曲とし、また、多大な人気を誇る理由になったと思っています。

 このことが初めてわかる部分がここです。「抱き合った仲間ともいつかは離れていくけれど…」

 あれ? これは報われない恋の辛さを歌った曲ではなかったのか…? そうではありません。

 この曲は、過去、とりわけ青春の日々を懐古する曲なのです。その一番のきっかけが、かつて抱いた「恋心」であって、報われない恋の辛さを吐き出したくて歌われた曲ではないのです。
 むしろ、「忘れない いつまでもあの恋 なくさない 胸をたたく痛みを」と、努めて忘れないようにしている点で、主人公は、この失恋をかなり肯定的なものとして考えています。

 この、「報われない恋」から「懐古」までの移行が絶妙です。失恋が後の人生の大切な思い出となることや、青春時代の感情の機微を懐かしむこと、それらの感情がないまぜになった何かは、言葉で言い表せないまでも、確かにみんなの共通認識として存在しているのです。その感情やニュアンスは、確かにこのようにして言葉で説明すれば、ああ、あるよね、と共感を得られるのかもしれませんが、それではあまりにも野暮です。そして、その固有名詞のない感情を、あえて説明的な表現を使わず、婉曲的に指し示しきってしまうところに、稲葉さんの手腕が見えるのだと思います。

 また、どうでもいいことなのですが、この過去のものとして語られた失恋の主体は、一体どんな人だったのでしょうか…。自分のことを「先生」と呼んでますが、これは、まさか自分の生徒への恋愛感情だったのか…? それとも、稲葉さんは大学時代に家庭教師をされていたようですので、家庭教師としての自分を「先生」と表現したのか…? このへんが何だか犯罪チックで大丈夫か?と思ってしまいますが、まあそこはスルーしましょう(いいのか?)。
 もしかしたら、そこに現実的な視点から切りこむのは野暮以外の何物でもないのかもしれません。実際、「先生」という表現は、他のいかなる知識も、彼女とつきあうことに関しては役に立たない…という状態を表す隠喩として、これ以上ない言葉選びだと思います。そして、「授業」や「シャンプーとリンス」といった言葉を併用されることで、この曲に、ある種のポップさをプラスし、「失恋」ではあるが、陰鬱とした雰囲気にならないようにする効果を発揮していると思います。

 この曲の素晴らしさについては、書いても書いても書ききれる気がしませんが、そろそろ私の語彙も尽きてきたので、このあたりにしようかと思います。

 「松本」という固有名詞を出してみたり、ミルクティーの後の「イェー」が何なのかとか、ネタにも困らないこの曲、これからも、いつまでも忘れずに生きていきたいものです。

2012年9月16日日曜日

満月よ照らせ

 今日はこれです。「満月よ照らせ」。

 この曲のテーマはわかりやすいと思います。この曲のみならず、ACTIONには、前向き後ろ向き如何にかかわらず、自分のいたらなさ、「罪」と言い換えてもいいかもしれません、そういったものを自省的に歌う曲がとても多いです。ちなみに、私はB'zの中でも、このアルバムは、1・2位を争うほど好きです。

 この曲では、「君」に対して、友情の一環というか、じゃれあいというか、恐らくそういう軽い気持ちだったと思います。「無神経な言葉を」浴びせ、結果、「君」にも、「仲間」にも嫌われ、孤立してしまった悲しみを歌っています。

 この歌の主人公のしたことは、許されることではありません、いじめの構造というものは得てして加害者側は「たいしたことじゃないとさえも 思うことな」いものだと思っています。

 しかし、私は、この主人公は、罰を受け、深く反省し、「くだらない涙」を流している時点で、ある程度許せる存在なのではないかと思っています。一番許されないのは「手のひらを返すように すっかり冷たくな」った「仲間」なのではないかと思います。大体、主人公は「弱虫ゆえ 仲間に紛れ 無神経な言葉を」浴びせたに過ぎません。同じように「無神経な言葉を」、この「仲間」たちは「君」に浴びせていたはずなのです。

 要するに、この「仲間」たちは「僕」をスケープゴートにして、あたかも自分たちは罪がないかのように振舞っているわけですが、このへんの主人公の不器用さが稲葉節ともいいますか、許されないことをしながらも、歌詞の主人公として、感情移入するにあたって、肯定的に見られる要因となっていると思います。

 「僕」は、そんな仲間たちに対してなんでしょうか?「絶望の底に湧く怒り」を抱えながらも、それが倫理的に主張すべきでない感情であると知っているため、苦しみます。そして、「誰か(=君)の想い」にようやっと気づくわけです。

 自分の罪が発端となって、「僕」は、「あると思い込んでた友情はそこにはなかった」ことに気付きます。実際は、友情らしきものはあったんじゃないかなと思いますが、ここではその友情の脆さを訴えかけていると私は考えています。「笑える話じゃないか」と自嘲気味につぶやく様子と、満月の情景、そして稲葉さんの歌声が絶妙にマッチしているとおもいます。

 その次の歌詞で、「そんなことだらけ」だと歌っていますが、これは、案外、自嘲に沈むが故の、極端なネガティブってわけでもないような気がします。自分が仲がいいと思っている人間も、実は自分のことを鬱陶しく思っていたりというのは結構ザラです。もしかしたら、私達が信じている友情というものの多くは、実は建前という薄氷の上にかろうじて成り立っているものなのかもしれません。

 最後に、私がこの歌詞の中で、最も絶妙な表現だなと思った箇所を紹介します。それは、「目覚めていれば もうちょっと何かわかる…」の部分の、「目覚めていれば」という表現です。

 私も人とコミュニケーションをとるのが、決して得意な人間ではありません。むしろ、この「僕」のように、「無神経な言葉を」浴びせて、関係を破壊してしまうケースを頻繁に起こしています。
 その時のことを後から思い返してみると、その時の自分を表現しようとしたときに、しっくりくる表現が、「目覚めて」いなかったとしか言い様がないのです。なんというか、今はあの時よりも世界がよりクリアに見えているといいますか、まさに、「目覚めていれば もうちょっと何かわか」ったのに、という表現に落ち着くのです。もしかしたら、コミュニケーションにおいて大切な、人の機微を察するという能力は、こうした痛い経験を繰り返して養っていくものなのかもしれません。

 私事になりますが、私は、生きていく中で、何度もこのような経験をし、たくさん相手を傷つけ、関係を壊してきました。本当に、「いつまで このままなの」という声が聞こえてきそうですが、少しでも失敗から学び、「目覚め」を繰り返し、円滑なコミュニケーションをとれるように、また、「あると思いこんで」いるだけでない、真の友情を手に入れられるように、努力していきたいと思っています。

2012年9月15日土曜日

CHAIN

ゴーヤぁ!!


 失礼しました。

 この曲は、稲葉さんソロ名義で出されているシングル「遠くまで」の2nd Beatです。

 冒頭のゴーヤぁ!ですが、私が勝手に最初のガヤの部分で、明らかに稲葉さんの声で「ゴーヤぁ!」と言っている(ように聞こえる)ことに妙にハマってるだけです。これ一体何なんですかね。聞く度に気になってしょうがないんですけど。

 で、この曲についてですが、この曲のテーマは、究極的には「優しさ」だと思っています。特に私自身、自分に最も欠けている感情だと思ったりするので、この曲を聞いていると、好きなんですが、やはり説教をされている気分になってしまうことがあります。

 CHAINとは、究極的には「人と人とのつながり」を示す鎖の意だと思うわけです。あえて「鎖(CHAIN)」という言葉を選んだのがまた妙だと思いますが、人と人とのつながり…絆は、時として「しがらみ」となって、私達を縛ります。そこには「うれしいことも」ありますが、「やなことも」もちろん存在するわけです。
 私なんかはどうしても人と人とのつながりのいい部分ばかりありがたがり、面倒くさい部分を完全に忌避してしまったりしますが、「うれしいことも やなことも どこかでみんな つながってる」ことを考えると、私のそういう部分は、まず肯定されるべきものではないことが、自分でわかってきてしまいます。

 しかしこれは、近年の核家族化、ネット社会化を考えると、割と日本人共通の問題とも言えるのではないでしょうか。みんな、人間関係の「やなこと」「まずいの」を嫌がるあまり、社会で孤立する人たちが増えていっていると思います。

 それが本当にダメなことなのかって根本的な議論はまずあると思いますが、やはり人とは、人である以上、社会的に誰かとのつながりを求めたがるもの。いやむしろ、「やなこと」「まずいの」を忌避するあまり、本当は望んでいる人とのつながりを放棄してる人に対して、この曲は訴えを起こしているのかもしれません。

 そして、稲葉さんはこの歌詞の最後に、CHAINを維持するための、彼なりの結論を示しています。それが、
1.「好き嫌い言わないでにっこり笑ってみればいい」
2.「あの人もこの人も大したもんだけど大したことない」
3.「精一杯生きている それだけでもういい もういいよ」
 という部分に表現されています。

 1.に関してはまあ分かるかなって感じだと思いますが、問題は2.ですね。あの人もこの人も大したもんだけど大したことないって一体どんな感覚なんだよってところですが、私はこの一文ほど、この歌詞の中で深い部分はないと思っています。

 2.の解釈については、色々な見方によって、この感覚を感じることができるのだと思います。
 まずひとつは死生観です。人はいずれいつか死にます、その人生、長くて100年程度。そう考え、また視点を、歴史レベルでマクロなところまで持っていくと、今まで身近で、凄まじい人だと思っていた人も、意外と大したことがない。

 あともう一つは、これは3.にも関わってきますが、結局人生色々あり、運をつかんだり才能があったりなかったり、色々と補助要員は存在すると思いますが、中核として、どんな人間も、「精一杯生きている」ことは変わりない。夢に向かってまっすぐ努力している人も、日々を怠惰に腐っている人も、みな、自分なりに何かしらの葛藤を感じ、その日々を精一杯生きている。そう考えると、今まで感じていた羨ましさや妬みがすっと消えて、憎たらしかったあいつをふっと「許せる」感覚にはならないでしょうか。

 しかし、この感覚を常に維持することはなかなか至難の業だと思います。誰もが精一杯生きてると言っても、世の中は得てして不公平ですから、同じだけの努力をしたのに、自分より何倍も幸福(に思える)あいつの存在ですとか、自分を置いてどんどん上に向かってしまうあいつの存在ですとか、逆説的ですが、精一杯生きている限り、誰もが精一杯生きていることを考え、その全てを許すことは、容易なことでは決してないはずなのです。

 ここで最初の結論に戻りますが、だからこそ、私はこの歌のテーマは「優しさ」なのだと思っています。自分が精一杯生きつつ、人の精一杯の生を認め、「好き嫌い言わないでにっこり笑」うことは、もはや並大抵の優しさではない。

 私などは特に、人一倍薄情な人間だったりするので、これからもCHAINを聞いて、少しでも自分の中に「優しさ」の灯をともしたい。そう思ってる次第です。くれぐれも、「もらったプレゼント」を「全部どこかに置き忘れ」ることがないよう、努力していきたいと思っています。

2012年9月13日木曜日

love me,I love you

 友人からありがたくもリクエストを頂いたので、今日はこれにすることにしました。

 LOOSEでラベルつけてますが、LOOSEに収録されたものはバスが入ったアレンジ版なんですかね? 純正のものは、シングルやベストアルバムに収録されています。

 この曲は、昨日のコブシヲニギレと一転して、歌詞・メロディともに、とても前向きなもの。正直私からすると、聞く時のテンションによっては説教をされているような気分になって、あえて聴き飛ばしてしまうことがあります。多分これ作ったのは、感情が欝の部分から少し立ち直りはじめ、躁に向かい始めたところなんだろうなとか思ったりします。

 しかし、稲葉さんの欝っぽい部分を好む私が、この曲をそこまで嫌いになれない理由があります。それは、この曲の歌詞が、前向きながらも、無責任な前向きさではなく、非常に感情の細やかなところに配慮した前向きさを秘めているからです。

 まずこの曲のテーマですが、「人の心はどうしても何か足りないけれど、そこんとこ埋めるべきなのは…」何か。「恋人じゃない 親でもない」、それは自分です。

 自分に愛されなくなったら、人は生きていけないと思います。自分が自分を好きになれなかった瞬間、人は究極に弱くなる。私は「自分を愛す」より、「自分に愛される」側の表現のほうが好きですが、とにもかくにも、これは私の実感を持って言えます。自分のことが好きな瞬間、人は強い。私はそのことを経験的に、またある瞬間は自覚的に知っていましたが、忘れていました。この曲を改めて聞いて、今それを思い出し、じんわりとした温かみが心のなかに広がっていくのを感じています。

 ここで示す「愛」というのは、以前に紹介した「愛のバクダン」と同じ、男女間の愛だけでも、親子の愛だけでもない、全ての「愛」を総体的に表現した「愛」だと思います。ちなみに、I love youの「you」も、男女間等々に限定しない、いわば隣人愛のようなものですね。

 まあただ、ここまでは割と私の中では普通、というか、私はこの曲が持っている、特別な「細やかなところに配慮した前向きさ」は、中盤の部分にあると思っています。

「都合いいモノだけひっぱりだして 自分の運の悪さを そいつにべっとりなする癖 ないかい」
「やりたくないことが次々と見つかるけれど 消去法でイケることもあるらしい・・・」

 いや、ちょっと待て、この部分は一体、自分を愛して他人を愛すこととどういう関係があるんだ?

 何かさらっと言ってるのでついつい何の疑問も持たずさらっと聞いてしまうのですが、改めて考えてみると、この部分には、自分を愛し他人を愛すこととほとんど関連性がない。というか、愛とかLoveとかさんざん抽象的でマクロなことを叫んでいたのにこのいきなり具体的な感じは一体何なんだよって話です。

 ただ、この2つの「具体的な事象」が、ひどくしっくりくる。まるで関係ないことを言っているはずなのに、見事に、「愛が途切れる瞬間」を挟みこむことに成功している。

 要するに、稲葉さんの中には、「愛が途切れる瞬間がいつか」というイメージが明確にあるんだ! つまりは逆説的に考えた時に、この曲は愛だ愛だと歌っているけれど、じゃあその愛が必要な瞬間ってのは一体いつなんだよってことを、ここで示しているわけです。「都合いいものだけ引っ張りだして自分の運の悪さをそいつにべっとりなす」りはじめたとき、「やりたくないことばかりが次々と見つかる」とき、そんなときは愛だ、愛を出せ! 「僕はきっと愛をもっと出せる」! ということだと思います。
 それはきっと、人生を生きることにおいて、極めて理想的な道筋に近い。
 成功者の鍵は、人に与えることと昔自己啓発本か何かで読んだことがあります(うさんくさい)。


 このように、love me,I love youは、よく言えばB'zっぽい、悪く言えば稲葉さんっぽくない、ひどく前向きな曲でありますが、私にはどうしても歌詞の中で気に入らない箇所もあったりします。

 それは、「love me ぴりぴりするなら すぐにムッとするのグッと耐えて I love you 愛を吐き出して・・・」という部分ですが、それこそ、そんなミラクルな芸当が簡単にできたら苦労しないよ、と。ずいぶんと難しいことをさらっと言ってくれるな、という印象です。マイナスのことを言うとまわりまわって自分に返ってくるから言わない~ってのも随分、いわゆる「リア充」的な思考だと思いますし、そもそも私が愛している、稲葉さんの歌詞のマイナスでドロドロした部分をちょんと切られたようで、どうにも釈然としない。
 まあでも、これはそういう曲なので、そこはあえてカットしていかないと、曲のテーマとして成り立っていかないのかなとも思います。マイナス部分に触れたければもっと他に曲いっぱいありますしね。

 最後にちょっと不平もたれましたが、総評的に考えたら、やはりこの曲は、私の中でも名曲と位置づけていいのかなと思っています。とりわけ、今私が「やりたくないことばかり次々と見つかる」状態だったので、この曲を聞いた時、心のなかで重くしこりになっていたものが、スッと軽くなり、ピンク色の光に浄化されたように感じました。

 これだからB'zを聞くのはやめられません。
 ありがとうB'z。

2012年9月12日水曜日

コブシヲニギレ

 これが感想を書くのは2曲めになりますが、どの曲を選ぶかについてはかなり迷いました。どの曲についても語りたいことがあるため、せっかくの今日の更新、本当にこの曲でいいんだろうか?という迷い方をします。

 今回のコブシヲニギレですが、曲のテーマは至ってシンプルだと思います。

 ゆっくりの前奏から、重いベースが入って、「知ってる 君がいつも陰で僕を笑いものにしてる…」と続く、私はこの時点で、きっと私はこの曲を好きになるだろうなと思ったわけですが、その後の曲の盛り上がりも素晴らしかったです。

 結論としては、人生上手いことやってる奴に影で笑われて、深く落ち込んだ挙句、黒い炎と共に立ち上がっていく、ただその1点を描いた曲ってことになるんだと思います。
 しかし、これは決して悪口ではないんですが、稲葉さんはこういう陰キャラ的なイメージがはまるな!(笑)マイナスの感情を蓄積していって、一気に爆発させていく感情のプロセスと、稲葉さんの歌声の音色、そして言葉選びが見事にマッチして、テーマはシンプルですが、その部分だけを色濃く切り取ることに成功している曲だと思います。

 ちなみに、「Bring it on」ってのは、何か相手が挑発してきたところに挑発し返すような、「受けて立つぜ」的なニュアンスを持つイディオムらしいです。まあこういうマイナスの感情は、得てしてそれをぶつける相手が存在するわけで(そして自分を「被害者」として定義する必要があるわけで)、そのあたりを考えてみても、この言葉選びはまた、そういう細かいニュアンスの持つ観念を考えても、曲のテーマにしっかりと合致しているなと思います。


 しかし、私はこの曲に対して、少し穿った見方をせざるを得ません。というのは、うまいことやってる奴がいて、(直接的に馬鹿にされるかはまた別としても)またそれに嫉妬し、悔しく思って打倒したいと思っている自分という構造は(自分が加害者になったり被害者になったりすることも含め)、人生の中で往々にして存在しうる、ありがちな構造だと思うからです。

 まあただ、生きている限り、その動機がプラスに向くものであろうと、マイナスなものであろうと、何でもいいから強いエネルギーが欲しい時ってのはあると思います。この曲は、蓄積されたマイナスの感情を一気にエネルギーに変える形で自分を鼓舞しようと思うとき、その「道具」として「使える」のではないでしょうか。

 私はこういうマイナスの局地みたいな感情は好きではありますが、そこから生まれたエネルギーはそうそう長続きするものでもないと感じています。しかしながら、上にも書きましたが、その動機がどんなに不純でひねくれ曲がっていようが、人生においてやるべき時というのは確実にあるのです。この曲が捉えているのはきっとその瞬間なのだと思います。

 曲の真ん中あたりに「このままうまくバックレようなんて世の中そんな甘くないんだよ…」という呪詛にも似た稲葉さんのささやき声が響きますが、別にこれは相手に言い返せ!とかそういうレベルの話をしてるわけではないと思うのです。例えばその相手は、自分の夢に向かう上でのライバルであったり、恋敵であったり、その他諸々、自分の行く手をうまいことやって阻むいけ好かないやつ全てを総体的に表した「敵」への、恨みにも似た対抗心を表しているのだと思います。


 漠然とした抑圧感を抱え、瞬発的なエネルギーが欲しいけど、いまいち力が出ない。そんな人は、この曲を聞いて、自分へのちょっとした揶揄を含んだ態度等々を、「いつも陰で僕を笑いものにしてる」と定義し、「コブシヲニギ」り、「メヲサマ」す一助としても良いのではないでしょうか。

愛のバクダン



 最初にテーマにする曲は随分と選びましたが、なんだかんだで聴き始めから今に至るまで、上下を繰り返しながらも安定してずっと、聞けば熱い思いになれる曲がこの曲だったので、最初はこの曲しかないと思いました。

 38thシングルで、アルバムではTHE CIRCLE収録曲とのことです。

 私は音楽的なことにはかなり疎いので、ギターがどう…とか曲調が…とか、専門的なことは全然よくわからないのですが、最初の軽快なギターの音から、重いベースの音が入って、曲調だけでぐっと引き込まれるキャッチーな曲だと思いました。
 B'zの曲には(誰の曲でもそうかもしれませんが)、最初に聞いておっと思う曲と、最初はそこまで感じないけれど、何回も聴き込んでいると段々ハマってくるタイプがあると思うのですが、これはどっちかというと前者だと思います。でも私の中では、同時に、何回も聴き込んでいてはまっていくタイプの曲でもあると思っています。
 実際、シングルの表になっていますし、B'zのお二人も、売れ線の曲として意識されているのではと思います。特に歌詞の意味を考えなくても、何となく聞いているだけで力が湧いてくる気がします。

 ただ、この歌詞なのですが、これが結構難しいです。
 そもそもタイトルが「愛のバクダン」ですが、この「愛のバクダン」が何を指しているか、非常に抽象的でわかりにくい。

 愛にも色々種類があると思います、よく歌謡曲では愛といえば男女間の愛が語られますが、私は、考えた結果、この曲の示す「愛」とは、大きな意味で男女間のそういうものが含まれるかもしれませんが、言うならば、ちょっとした気遣いや、親子、師弟、そういった「人と人」の間に生まれる「愛」全てを総体的に指した「愛」だと思いました。

 そもそも、歌詞の中で特に「愛のバクダン」と対比的に語られているのは「ジェラシー」だと思うのですが、この「ジェラシー」は「すべてを燃やし尽くし」たり、「僕を焦がし」たりしてるわけです。それを打ち消すのに、あえて愛の「バクダン」を使うのはなんぞやって話ですが、私はそこの絶妙な例えこそ、この「愛のバクダン」の持つパワー、スピード感が生まれた鍵なのではないかと思います。

 端的に言えば、この曲は、「もっと愛をくれー!!」と、街の真ん中で天に向かって叫んでいる、そんな曲なのではないかと思いました。私はこの曲を初めて聞いた時に、わけもわからずボロボロ涙を流しながら、何度も何度もリピートして聴いてしまいましたが、今思えば、自分の意に反して嫉妬に燃え上がっていくこの体に、同じくらい燃えるような愛を、いやもっとそれすら凌駕するような熱い熱い愛をくれ!!と虚空に向かって叫んでいるような、この前向きかも後ろ向きかもわからない、でもひたむきでとにかく熱い思いを感じ取っていたのだと思います。

 またちょっとしたことですが、私は何となく、「あいつのことばかり 気になってる」の「あいつ」を、気になってる女の子のことなのかなと思っていましたが、よく歌詞を見てみると、これは恋敵のことなんじゃないかとわかりました。

 上にも書きましたが、ここで示す「愛」とは、男女間のそれももちろん含まれる、総体的な「愛」のことです。「きみのVoice」の「きみ」は、もちろん想い人のことだと思いますが、「ふとしたSmile」をくれたのは、想い人でなくてもいいはずです。

 この曲は、「愛」という漠然とした概念を、漠然としたまま理解して、曲に昇華することに成功していると思います。全ての人の心が愛で満たされていたら、もしかしたら、この世はもっと平和なのかもしれない、「悲しみのからくり」を打破できるのかもしれない、というかむしろ自分自身がそれにとりこまれそうだ、だから愛をくれ、愛をくれ!と虚空に叫んでいる。
 「愛」という概念は、よく歌謡曲のネタにされる、極めて難解でつかみにくいものだと思いますが、もしかしたら、「嫉妬」「ジェラシー」と対比させることで、見事にその像を捉えることができるのではないか、そう感じさせてくれる曲だと思いました。

 そして、ジェラシーを、身を焦がすものとする捉え方はある意味一般的だと思いますが、そこにあえて「愛」という概念を「癒すもの」として捉えるのではなく、「バクダン」という、更に火力の強いもので例えたことにより、強い切迫感、身体の中からふくれあがってくるような熱望、スピード感を呼び覚まし、この曲を名曲とする大きなカギとなったのではないかと思っています。

 また、この曲については、稲葉さんの端々での言葉選びの正確さと歌い方によって、改めて歌詞について考察しないでも、何となく心で言いたいことを先行して感じ取れるような気がします。
 嫉妬に燃えながら愛を必死に求めるこの歌は、やはり歌声に切なさとパワーを兼ね備えた稲葉さんだからこそ、そのテーマも含めて100%歌いきれる曲なのだと思います。

はじめまして


はじめまして。
とある思いつきから、これから不定期でB'zの曲の感想を書いていこうと思い立ちました。

ひとつお断りしておくと、私は正直そこまでB'zに詳しいわけでもなく、まだライブにも行ったことがありません。また、シングルの裏とか、聞いたことすらない曲が結構あったりもします。

そんな感じですが、B'zへの愛はなかなかに強いものだと自負しているので、今回、自分の記録用のためにも、B'zの曲を聞いて思ったことと、曲をモチーフにしたイラストをあげていこうと思い、ブログをはじめました。

よろしくお付き合いいただければと思います。